はじめてのレポート…学生にとっても、教員一年生にとっても
2013年度冬学期に担当した「総合政策入門」の成績評価は、「興味のある分野について中間レポートと期末レポートを提出せよ」という課題でした。私も、公法入門というタイトルで1回担当しました。総合政策学科の教員が代わる代わる講義をするオムニバス授業といわれるこのような形態で、しかも担当した教員の専門もばらばら(それだけ多様な専門知に触れていただくのが狙いです)。
教員一年目にして初めてのレポート採点。そして、おそらくは学生にとっても初めてのレポート。実にいろいろなタイプのレポートを拝読したので、ここで講評をさせていただきたいと思います。(関連する掲示を、後日法経学部の掲示板にも行います)
【追記:剽窃と不適切な引用についての区別等、不適切な箇所がありました(厳密に言えば剽窃は著作権法の問題というより倫理の問題です)ので、追記をしました。<【 】部分は2014年3月13日16:29挿入>としてあります。連続ツイート #著作権法と剽窃 にて ご指摘いただいた ronnor(@ahowota) さん、ありがとうございました。】
レポート課題とは何か
レポート課題とは何を目的にして出題されるのか。このことについては、実は私が「ぱうぜ」名義で連載している「ぱうぜセンセのコメントボックス」にて、一度書いたことがあります。
その「問い」は何のため?レポート課題の目的とは
レポート課題を出す目的についても触れました
この連載では、法学に限らず、大学教員としての気づきを親しみやすい口調でまとめたものですが、本質的なところを述べたつもりです。
つまり、レポートとは、「論文」の練習であるということ。そして、その内容は「問い」を作り出すためのステップであるということ、です。(前掲リンク先にて戸田山和久『新版 論文の教室 レポートから卒論まで』NHKブックス、2012年を引用しつつ説明しましたので、ご参照ください。なお、「レポート」という言い方で「調べ物」を課題として出す場合もありますが、ここではそうではないものを指します)
ぱうぜセンセの発言を引用するならば、こういうことです。
問いを立てて、一応の答えを立てて、それを論理的に証拠を使って説得していくという論文執筆の各部分を、少しずつ体得させるためのもの (ぱうぜ・前掲「その問いは何のため?レポート課題の目的とは」より)
しかし、このことは、普通に説明すると、なかなか学生には伝わらないようです。今回のレポートも、オムニバス講義の限界もあり、そのことが伝わっていないと思われるレポートがかなりありました。
問いを作る、そして丁寧に論評するということをしないとどうなるか。「がんばって調べました」レポートになります。
がんばって調べました。はいそうですか…。
もちろん、リサーチ能力を、きちんと身につけたのであれば立派です。後述する引用や参照の作法がきちんとできていれば、「段階的な学び」という観点からすれば、それはそれで良いことです。しかし、問いが不明確であるレポートは、しばしば、引用・参照の作法も出来ていないことが多かったのです。
これはなぜでしょうか。実は、「がんばって調べました」レポートは、いわば学習ノート。オリジナリティや創造性という要素が、欠けているために生じる現象なのです。このことは、「なぜ論文には脚注や参考文献欄が必要なのか」ということと合わせて教えるべき、表裏一体の関係にあります。
脚注・参考文献の必要性
レポートにおいて、「コピーアンドペースト(いわゆるコピペ)はダメだ」と教わるでしょう。「そのような行為は剽窃(ひょうせつ)になる」と。
それでは、なぜ剽窃はダメなのでしょうか。ものすごく細かいことをいえば【剽窃と著作権法違反の「引用」は厳密に言えば異なるのですが、ここでは説明を省略します】、【適法な引用とは何なのか、については】著作権法32条・48条にさかのぼります(詳細な説明として、近江孝治・後掲59-63頁)。<【 】部分は2014年3月13日16:29挿入>
著作権法 (法令データ検索システムの該当ページ http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S45/S45HO048.html)(なお、下線・太字による強調は引用者による。)
32条1項 公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。
48条1項 次の各号に掲げる場合には、当該各号に規定する著作物の出所を、その複製又は利用の態様に応じ合理的と認められる方法及び程度により、明示しなければならない。
一 第三十二条、第三十三条第一項(同条第四項において準用する場合を含む。)、第三十三条の二第一項、第三十七条第一項、第四十二条又は第四十七条の規定により著作物を複製する場合
二 第三十四条第一項、第三十七条第三項、第三十七条の二、第三十九条第一項、第四十条第一項若しくは第二項又は第四十七条の二の規定により著作物を利用する場合
三 第三十二条の規定により著作物を複製以外の方法により利用する場合又は第三十五条、第三十六条第一項、第三十八条第一項、第四十一条若しくは第四十六条の規定により著作物を利用する場合において、その出所を明示する慣行があるとき。2項 前項の出所の明示に当たつては、これに伴い著作者名が明らかになる場合及び当該著作物が無名のものである場合を除き、当該著作物につき表示されている著作者名を示さなければならない。
3項 第四十三条の規定により著作物を翻訳し、編曲し、変形し、又は翻案して利用する場合には、前二項の規定の例により、その著作物の出所を明示しなければならない。
著作物を利用するには、著作者の許可がいる。しかし、著作権法上認められた正当な範囲であれば、利用することができる。しかし、その場合はきちんと決められたルールを守らなければならない。それが、公正な慣行に合致し、引用の目的上正当な範囲内、という形になっています。
法律上はこうなっている。しかし、何が正当な範囲で、何が公正な慣行なのか。そしてそれらが守ろうとしているものは何なのか。【また、法律に違反する・しないの問題ではないとしても、倫理上守らなければいけない規範は何なのか。】<【 】部分は2014年3月13日16:29挿入>
あえて2つにまとめます。
「先行者に敬意を十分にはらっているか」。そして、「議論の論拠を後から確かめることができるか」。この二つを満たすような脚注と引用をしなければならないのです。その具体的ありかたは、実は学術分野によっても細かいところまで見るとかなり違いがあるのですが、この二点を守ろうとしているという大枠においては、どの分野にも共通していると考えます。
具体的なやり方については、後に紹介する「論文の書き方」に関連する書籍でも、必ず参考文献の書き方について項目があります。それらの記述を見ながら、前述の二つの点が守れるような形になっているのかを、今一度確認してください。
具体例に沿って考えてみよう
以下では、レポートを採点しながら気がついた点を述べたいと思います。
1.「参考文献欄」への丸投げはダメ
一番多かったのはこのタイプでした。A4で3枚のレポートを、三つ以上の文献を参照して書くということになっていたのですが、すべて文末の「参考文献一覧」に述べるだけ、というものです。そうすると、どうでしょうか。
先行者への敬意は?…うーん、確かに「この本を読みました!」というところは伝わってきますから、丸写しよりはマシかもしれません。しかし、このやり方では、どこまでが本に記載された記述で、どこからがあなたの考えたことなのかがわかりません。300頁以上もある本のどこを読んで考えたことなのか。
実は、このようなスタイルは、一般のコラム等では許容されていることがあります。また、紙面に限りがある解説等でも行われることがあります。しかし、それは「論文」の下準備である「レポート」には当てはまらない理屈なのです。
上の例でも、私は「著作権法に確か規定があったけど、どういう関係で説明したらいいのかな」と考えて近江先生の本を読んだので、該当ページ数を示しています。より詳しい説明が必要であれば、ぜひ原文にあたってください、と示しているのです。なお、この本は法学系の論文の書き方について、細かいところまで含めて非常によくまとまっている本です。
2.脚注が足りない
分野ごとに適切な「脚注」・「参考文献」の扱い方が違います。実は、私がバックボーンにしている法学は、他の分野と比べて脚注が多い傾向にあります。たとえば、拙稿(「義務付け訴訟の機能(一)―時間の観点からみた行政と司法の役割論―」『国家学会雑誌』126巻(2013年)9・10号1-65(5)頁)から引用すると、こんな具合です(引用にあたり、脚注番号を変更した)。
第二の問題は、従来別個のものとして議論されてきた取消訴訟と義務付け訴訟を結びつけたために、違法性判断の基準時について不整合な状況が生じていることである。これまで、取消訴訟において行政処分の違法性を判断するために基準となる法状態・事実状態は処分時のものであるとする処分時説が取られている[i]。これに対し、義務付け訴訟については、事実審の口頭弁論終結時、いわゆる判決時の法状態・事実状態にしたがって判断することが相当であるとされている。判決時になる理由としては、行訴法三七条の二第五項及び三七条の三第五項の要件が、義務付け判決の要件とされていることから、遅くとも事実審の口頭弁論終結の時点において、行訴法三七条の二第五項及び三七条の三第五項の要件を具備した状態であると認められる必要があると説明される[ii]。この点は義務付け訴訟を給付訴訟であるとする論者も「民事訴訟の原則に従い、口頭弁論終結時」[iii]であるとして、形成訴訟であると見る論者と結論において一致している[iv]。
一段落の中に脚注がたくさんありますが、これは学説の対立軸を示そうとする場合は仕方の無いことですね。それぞれの説を誰が言っているのか、そしてどういう議論状況にあるのかを整理したというわけです。なので、これらはむやみに付けたというわけではなく、必要な注ということになります。「調べました」レポートであっても、必要な注がきちんとついていればまだ良かったんですが、さすがにそのようなものは少なかったです。
3.文献についての知識が足りないと参考文献の表記ができない
最後に、これは法学系あるあるなのかもしれませんが、判例評釈の取扱い、初心者には非常に難しいです。判例評釈とは、裁判所が出した判例を、研究者や実務家が解説・評論・批評した文書一般のことをいいます。特に、著名かつ重要な判例を分野ごとに集め、原則見開き2頁に収めた有斐閣の「判例百選」シリーズが有名です。問題は、この判例百選シリーズを引用する場合です。判例百選シリーズは、『ジュリスト』という雑誌の別冊という扱いで発行されていますが、それぞれに編者がいます。そして、各判例について解説・批評する筆者が記事ごとにいます。また、判例評釈は独自のタイトルを付けず、あるいは付けていても「判批」というタイトルでまとめられる慣行もあります。…以上のような知識を基に、先ほどの引用文中にあった判例(最判昭和二七年一月二五日民集六巻一号二二頁)について解説された部分を、行政法の判例百選のうち一番新しいものから参照したい場合、こうなります。
最も細かいやり方:多賀谷一照「違法判断の基準時」宇賀克也・交告尚史・山本隆司(編)『行政判例百選Ⅱ(第6版)(別冊ジュリスト212号)』有斐閣、2012年、420-421頁
判例評釈限定の省略の仕方:多賀谷一照「判批」宇賀克也・交告尚史・山本隆司(編)『行政判例百選Ⅱ(第6版)(別冊ジュリスト212号)』有斐閣、2012年、420-421頁
判例百選シリーズ(あまりに有名)なので場合によっては許容されうる(凡例等で注記が必要)省略の仕方:多賀谷一照『行政判例百選Ⅱ(第6版)』2012年、420-421頁
この例だと、多賀谷一照先生(百選では執筆者名が各記事のタイトルそば(横書き)や、文末(旧版の縦書きのもの)に書いてあります)が執筆された2頁見開きの記事なのです。
判例百選シリーズの基本的なスタイルは、前半に「事実の概要」と「判旨」という判例の要約(要約は筆者が行います)があり、途中から解説が始まり(文中に( )で注がつきます)、最後に簡略形での参考文献一覧がつくというものです。ちょっと変わっていますが、法律を勉強する人間からすると、当たり前すぎて、説明しないままになってしまうことも多いのです。
そのため、一年生のレポートでは、編者を著者と取り違えたり(上記の例だと宇賀先生、交告先生、山本先生が書いたのだと勘違いする)、要約にすぎない部分を判例そのものだと勘違いしてしまうというものが多数ありました。正しい形で用いることができたレポートは一通もありませんでした。
また、版を落としてしまったものもあります。これだと途中で内容(場合によっては担当者も)が変わっていることがありますので、対応しないことになってしまいます。
これらは、文献についての読み方の問題なので、指導が行き届かなかったということでこちらの責任でもあるので、周知を図りたいと思います。
おわりに
最後に、「調べましたレポート」の問題をもう一度だけコメントしたいと思います。
レポート課題は、知の世界に自ら立つための練習です。
「答えるに値する」問いをたて、それに応答する形でレポートを組み立てる。そのために、いろいろ調べて、先行者がどこまで明らかにしているのかを示して、そこに少しでも何かを継ぎ足そうとする練習です。
レポートにせよ、論文にせよ、オリジナリティのあるものは、「先行者に全く頼らない」ものでもなければ、「先行者をまとめただけ」のものでもないのです。その間のどこかにあることが多いです。
「調べましたレポート」しか書けないのでは、そのような知のフィールドには立てないのです。なぜか。まとめ方に対する観点が違ってくるからです。
「問い」を持って先行文献を探したものは、どうしてその文献のその箇所を選択したのか、取捨選択の基準自体にも創造性が含まれます。
これに対し、「問い」を意識しないでただまとめたものは、背骨がありません。どのような観点で取捨選択したのかも見えにくくなっているのです。
取捨選択自体にも、先行者の業績に対するあなたの視点が入るものなのです。
そして、そうであるからこそ、取捨選択の作業自体があとから検証可能でなければなりません。
辛口とか厳しいとか、学生諸君に言われることもありますが、訓練で死ぬのはリスクが限定されているわけで、本番で死なないようにするためですよ。確か、パイナップルアーミーで、「今のでは、三回死んでいるぞ」という教練に当たる軍事顧問の言葉があった。
— 瀧本哲史bot (@ttakimoto) 2014, 3月 11
…すべてを一足飛びに身につけることはできません。練習できるうちに、訓練できるうちに、とことんやってみましょう。
参考文献
戸田山和久『新版 論文の教室 レポートから卒論まで』NHKブックス、2012年
近江幸治『学術論文の作法-[付]小論文・答案の書き方』成文堂、2011年